・・・さて、今日は珍しく真面目なことを書いてみます。
僕の教え子なんかでは、今でも
「高橋先生と言えば「人生は努力」」
みたいに思っている子が結構いるみたいですけれど、僕自身、まだまだ若いので少しずつ考え方も変化してます。
もちろん、今でも「人生は努力」だと思っているし、というかこれは僕の人生哲学の1つで変わるはずもないのですが、でも、最近思うようになったのは
「努力をするには理由が必要だ」
ということなんですね。
・・・もちろん、「普通の幸せ」を幸せだと思えるのであれば、偏差値60〜65ぐらいの人生で満足出来るのであれば、桁違いの努力など要らないんです。
一流と呼ばれる大学に入って、就職偏差値でも上位の安定した大企業に入って、偏差値60ぐらいの「普通より少し良い」結婚をして、そしてそのあとはリタイアするまで同じ事の繰り返し、なんていう、そんな人生を良しと出来てそれに何の疑問も持たないのであれば、せいぜい他人の2倍から3倍程度の努力で十分です。
そういう人には「人生は努力」で何の問題もないんです。
そういう人は、「努力するのは幸せになるためだ」でおしまいで、それ以上の理由は要らないでしょう。
なんだけれど、例えば何か一つのことを極めようとする人の場合などは、たかが他人の2倍3倍程度の努力では話にもならないんです。
まさに「桁違い」の、それこそ他人の100倍ぐらいの努力をしなかったらダメなんです。
そして、学問でも音楽でも芸術でも囲碁などの勝負の世界でも同じだと思うんですが、それって本当に大変なんですよ!
起きている時間のほとんど全てをそれに充てるなんてのは当たり前で、数学などに至っては、下手をしたら寝ているときだってやるぐらいでなければいけないんです。
それって最早「健全な努力」ではないですよね。
冗談ではなく本当に命を削るような「不健全極まる努力」ですよ!
更にそれに加え、リスクだってありますよね。
ある一つの分野で一流になるには、他の全てを捨てて膨大なる時間をそれに費やさなくてはいけなくて、そしてそれだけやってもそれで食べていける保証はないんです。どの分野にもものすごい人たちがわしゃわしゃいますからね。
だからその「桁違いの努力」を継続するのは本当に大変なんです。
情熱の炎も必ず衰えるし、きれいごとだけではないことも20代にもなれば分かりますしね。
そんなだからこそ、確固たる理由がなければダメなんです。個人的には、神童が二十歳を過ぎてただの人になる理由の一つは、この「確固たる理由」が見つからなかったからかな、という気もします。
・・・とまあ、これは僕みたいな、もはや常軌を逸して頭のイカれた人の話ですけれど、でもそこまででなくても、世の中は上に書いたような「偏差値60ぐらいの人生」を歩む事に全く違和感がない人たちばかりではないはずですよね。
程度の差こそあれ、そういう人生に一抹の不安や虚無感を感じる人は少なくはないでしょう。
そういう人にも「人生は努力だ」ではダメなんです。努力する理由が必ず必要なんです。
・・・で、その「理由」はというと、それは自分でつかみ取らなくてはいけないもので、僕も24年間かかったぐらいだからそれは簡単ではないんだけれど、でも、そういう人に対して僕が自信を持って言える事がひとつ。
「青春は辛く苦しいものだけれど、若さと健康さえあればもがいていれば道は必ず開ける」
結局はこれが、「人生は努力」より根源的な、真の基本原理なんではないでしょうか。
・・・さて、特に推敲とかしないから今回もあんましまとまってませんけど、でもなんとなく僕の言いたい事が分かってくれる人がいれば嬉しいです ^^
ではではー☆