履歴書(非公式版)

1993年ー1994年、1996年ー1999年

与野市立上落合小学校、与野市立下落合小学校に在籍。小学校低学年の頃は、勉強も鉄棒も縄跳びもメロディオン(今は鍵盤ハーモニカと言うらしい)も水泳も図画工作も、本当にありとあらゆる全てにおいて他の子より遥かに出来なかった。(それが今では、こうしてたった一人で数学者として世界を廻っているのだから人生というのは不思議だ。)1、2年生のときの担任の H 先生が大好きだった。漢字テストで50点を取って怒られたりなどといったことも沢山あるのだが(ちなみにかなり他人の力を借りて(つまりカンニングして)その点数だった)、先生も自分に懐いていたあの出来の悪い子を本当に可愛く思っていたのだろうと今になって思う。このときの同級生の S も現役で東大に行った。ちなみに彼は、(今より)ずっと若かった頃、「この人は本当に凄い」と思った数少ない人の1人だ。

1994年ー1996年

某大学の教授(当時)で Latin American history を専門としていた父の仕事の関係で、家族4人でチリに2年弱ほど住む。場所は首都のサンティアゴだった。現地校に行った。当時はスペイン語もペラペラだったのだが、今ではもう忘却の彼方。  

1999年ー2002年

与野市立(現さいたま市立)与野東中学校に在籍。帰宅部の囲碁将棋部(将棋をまともに指せる人は他におらず、囲碁に至っては誰1人ルールさえ知らなかった)に入部。中学校に入学した頃から一日2時間ぐらい勉強するようになった。一年のとき英語のスピーチコンテストで学年代表になった。何かで表彰されるのはこれが初めてだった。生まれつき心臓に穴があったので、2年生のときに検査で数週間慶応病院に入院した。3年生の夏には手術を受けるため学校を1ヶ月以上休んだ。大分薄くなったが胸には今でも一直線の長い手術跡が残っている。特に2年生、3年生の頃は、人生というものに対して漠然とした不安と恐怖を感じていた。

2002年ー2003年

私立城北高校在籍。開成に落ちて城北高校に行った。入学したその日から、「ここは自分には合わない」と思った(とは言っても、どこに行っても同じように感じていたはずなので城北を悪く言うつもりは微塵も無い)。1年生の最初の学力テストで学年1位になった。高校からの入学生がトップになるのは異例らしく、かなり話題になったらしい。学校から帰る埼京線の車内で、他の学校と思われる学ランの数人が「城北に入った高橋という奴が革命を起こしている」なんていう話をしていた。人が自分の噂話をしている場面に遭遇したのは後にも先にもこれだけだった。この頃は自信など全くなかった。人生というものに希望を持てなかった。この中学から高校のこのあたりは人生の暗黒期で、これだけは今でも笑い話ではない。多分生涯、笑い話にはならないだろう。結局、精神を病んで2年生の途中で高校を中退する。

2003年ー2005年

高校を中退してモスバーガーでバイトしていた。実はその前に引っ越しのバイトもしたのだが、あまりにもキツすぎて一ヶ月で辞めた。(ちなみにこの会社は数年前ブラック企業賞の「アリえないで賞」を受賞した。)モスバーガーでの時給は750円で、一年弱で100万近く稼いだ。毎日、朝7時から午後4時ぐらいまで働いていた。モスバーガーでは、初めて集団生活(というのだろうか)が楽しいと思った。ほんの少しだけ、自分の居場所を見つけたような気がした。その後大検を取って東大に入学する。年齢的には現役だった。

2005年ー2007年

東京大学理科二類に在籍。僅かに受かりやすい(合格最低点が理科一類より1点程低い年が多い)という理由で二類を選んだ。大学に入学して初めの2年弱は全く勉強をしなかった。ジャグリングをやったり、マジックの練習にのめり込んだり、合気道を頑張ったりした。入学する前は、東大に入れば人生バラ色でもう勝ち組だと思っていたのに、実際には何も変わらなかったことがショックだった。まだまだ人生という迷宮に迷っていた。ひたすら、自分のやりたいことを必死に探していた。

2007年ー2009年

東京大学教養学部基礎科学科数理科学分科に在籍。進振りの希望を出す締め切りの数日前まで森林と水産を第一第二希望にしていたのだが、直前になって何故か教養学部数理科学分科に変更した。もしあのときに変えていなかったら人生は今とは随分と違ったものになっていたかも知れない。ちなみに進振りまでの学部前期の成績表の過半数は可だった。落とすと留年の実験すら、大分さぼったので可だった。あともう一回さぼっていたら本当に留年していたかも知れない。数理科学分科に行くと決まった瞬間から、急に人が変わったように数学(と物理)の猛勉強を開始した。その頃は、偏微分の∂の記号の意味すら知らなかった。sup の記号も見たことがなく、調べて説明を読んで「max と何が違うんだ?」とか思っていた。半年ぐらいして、いつの間にか学科でもトップレベルになった。3年生の後半には、成績優秀者数名が実験の代わりとして履修出来る数値実験の実習を取らせてもらった。プログラミングはこれが初めてだった。(学部前期にもプログラミングの(必修の)授業はあったのだが何一つ勉強しなかった。)これが本当に面白くて、この頃は一日中ずっと計算機室に籠ってプログラムを書いていた。学部3年の初めからアメリカに行くまで、某進学塾で高校生の集団指導もしていた。初年度は相当に苦労したのだが、大変な思いをした分本当に成長し、2年目からは山ほど仕事を振られるようになった(夏期講習や冬期講習では一日9時間授業を12日間連続、なんていうことが何度もあった!)。その年には300万近く稼いだ。当時は夢想だにしなかったが、このときの経験がアメリカで本当に生きることになった。

2009年ー2012年

東京大学数理科学研究科に在籍。院試に受かり東大数理に行くことになった。この3年間は人生で2番目に辛い時期だった。入学して半年ほどで数学を止める決意をした(理由を書くことは控える)。それ以降は大学院ではほとんど数学をやっていない。それから就活を色々してはみたが、どこも全く面白いと思えなかった。面接やグループディスカッションでもことごとく落とされた。自分の生きる場所はこの世界にはないのかも知れない、と思った。そうこうするうち、外資系金融に興味を持った。そのときにはすでに募集を終了していたので、一年留年して受けることにした。結果、とあるところから内定は頂いたのだが、その頃には既に金融にはほとんど興味を失っていた。知れば知る程、投資銀行は非常に「カッコ悪い」方法で金儲けをしていた。一生を掛けるに値する仕事には思えなかった。自分の生きる道はここにもないのか、と思った。ちょうどその頃、学部時代に懇意にしていた数理生物学の池上先生に「高橋君はアメリカに行ってみたらいいんじゃない」と言われ、アメリカ Ph.D. の存在を知った。挑戦すると決めてからもその道は困難を極めたが(様々人生のドラマがあったのだがそれは割愛する)、結局、TOEFL もなんとかなり、修論も奇跡的になんとかなり、卒業間近の3月ごろに UC Irvine に合格を頂いた。合格のメールを読んだときは涙が止まらなかった。パソコンに向かって、「ありがとうございました!」と何度も何度も頭を下げた。人生の黄金時代の幕開けだった。

2012年秋ー2013年夏(UC Irvine 1年目)

初めて UC Irvine に着いた日のことは昨日のことのように覚えている。ラピュタを思わせる巨大で美しい円形のキャンパス、中央の公園にそびえ立つ50メートルはあろうかという巨大な木々、雲一つない今まで見たどんな青よりも青い空、英語で会話する人たち、そこかしこに見かけるリスやウサギやハチドリ、ゴミ一つ落ちていない緑に溢れた美しい町並み、咲き誇る南国の花々、巨大な茄子やパパイヤや初めて見る果物が美しく並べられたスーパーマーケット、感じの良いフレンドリーな店員さんたち、その全てが衝撃だった。この世界にこんな場所があることが信じられなかった。着いた瞬間に、「ここでは本当に上手くやれる」と直感した。そしてそれはすぐに確信に変わった。ありとあらゆる全てに恵まれ、全てが信じられないぐらい上手くいった。今までの挫折と苦悩が万倍の幸運になって返ってきたかのようだった。英語で苦労することも、孤独に苦しむこともカルチャーショックを受けることも一切なかった。アメリカ人の友達も瞬く間に出来たし、数学科の事務の人たちともすぐに仲良くなった。先生達の講義にも圧倒された。東大や東大数理のそれとはまさに桁違いだった。複素解析の授業を担当されていた Gorodetski 先生に惚れ込み、彼を advisor に選んだ。人生で2番目に良い選択だったと思っている(言うまでもないが人生最良の選択は UC Irvine に来たことだ)。英語の oral の試験も1学期中にパスし、2学期にはもう TA の仕事を貰った。この TA の仕事も、信じられないぐらい上手くいった。International の学生が2学期から TA として働く、ということだけでも相当異例なのだが(実際 UC Irvine での5年間でそういう学生には1人も会わなかった)、その最初の学期での teaching evaluation が数学科の100人超の TA の中で No.1. になった。恐らくこれは未来永劫誰にも真似出来ないだろうと思う。Teaching では本当に絶大なる人気を誇った。放ったジョークに教室が揺れるほどの爆笑の渦が巻き起こったことも何度もあった。Teaching evaluation には毎回最大級の賛辞が並んだ。Teaching evaluation を見せた advisor には “unbelievable…” と言われたし、Graduate Coordinator には “yours were OUTSTANDING!” とメールで言われた。2学期か3学期の頃には、車で15分ほどの所にあるビーチに友達に連れて行ってもらった。言葉が出ないぐらい美しかった。まさに理想郷という言葉に相応しかった。この一年は、間違いなく人生で最も充実していた一年だった。頭の中が常に大量の脳内麻薬で満ちているようだった。こんな時を経験することはもう二度とないだろうと思う。

2013年秋ー2014年夏(UC Irvine 2年目)

2年目にもなると、流石に1年目の感動は多少薄らいだが、それでも本当に energetic だった。毎回毎回、どの学期も、授業や宿題やセミナー発表や、研究のための勉強や TA の仕事でてんやわんやだった。2年生の終わりには advisor と一緒に conference に行って自分の結果を話した。それが初めての conference だった。その少し後に Advancement to Candidacy があって Ph.D. candidate になった。同じ頃、Dynamical System の Summer School で Houston と Maryland に行った。Maryland では日本からの参加者の S さんに会った。ロシア人の L ともそこで会った。夏休みが始まる頃には Products of two Cantor sets の鮮やかな結果を得て大興奮した。8月には Math Circle(Orange County に住む優秀な高校生向けに数学科が無料で提供しているカジュアルな勉強の場)で初めて C に会った。当時彼女は弱冠14歳だった。Summer Session では初めて instructor の仕事を貰った。2年生が instructor を任されるのは異例中の異例で、数学科ではここ10年ぐらいで初めてのことだったらしい。試験も全て終わったあと、生徒だった K に「いつもあなたの juggling に impressed してます」と言われ、彼女と一緒にジャグリングサークルを作った。ジャグリングサークルは、一時期は部員が40人ぐらいいたと思う。夏休みにはみんなでビーチに行った。

2014年秋ー2015年夏(UC Irvine 3年目)

3年生の最初の学期でも instructor を任された。そこで C に再会した。その後しばらくして彼女もジャグリングサークルに加わった。3年生のときには conference で色々な大学を廻った。そのうちに他大学の知り合いも増え、初めて会う人とも気軽に話せるようになった。3年生の終わり頃に最初の3つの論文が全て片付き、advisor と相談して大きな問題にチャレンジすることにした。ちょうどその頃、キャンパスで開かれた One World Concert にパフォーマーとして参加して、ジャグリングとマジックをステージで披露した。予想もしなかった余興があり、そこで一緒に来ていた C が名乗りを上げ Frozen の Let It Go に合わせて即興で踊りを踊った。見事だった。彼女は美しかった。

2015年秋ー2016年夏(UC Irvine 4年目)

4年目になると、もう講義もなくひたすら research だけになった。TA では基礎がまだあやふやな domestic の Ph.D. の一年生向けのクラスである Introduction to Graduate Analysis のクラスを担当して、この年の一年生は少しクセもあってこれは少々苦戦した。年齢のほとんど変わらない(何人かは年上だった)学生を教えるのはなかなか難しかった。3月には advisor と一緒に Brown University に行き、そこで初めて Solomyak 先生に会った。Advisor は Solomyak 先生と共著で一本書いているのだが、彼も実際に会うのは初めてだったらしい。Solomyak 先生は本当に感じの良い方で一発で好感を持った。Postdoc を雇える grant を持っているから勉強しに来たかったらいつでも welcome だよ、と言われた。Solomyak 先生が University of Washington の professor だったときの弟子である Pablo Shmerkin にもそのときに会った。4年生の終わりには conference で色々な所を廻った。夏休みの7月にはイタリアの Trieste にある ICTP に行った。それが初めてのヨーロッパで、そこでロシア人の L と再会した。Maryland の M ともそこで随分と親しくなった。Conference の中日には L や M と一緒に国籍がバラバラな10人程でヴェネツィアに行った。最終日にはダンスパーティーがあって、そのとき踊れずに非常に歯がゆい思いをした経験からサルサ(ラテンのペアダンスの一つ)を習い始めた。真面目に練習した甲斐もあり今ではもうかなり上手い。Trieste での conference が終わった後は、1人で一週間ほどイタリアを観光した。Florence, Cinque Terre, Rome などを廻った。一人旅をするのは多分これが最初で最後だろう。8月には Indiana University Purdue University Indianapolis という非常に変わった名前の大学に conference で行った。この conference は非常に面白くて、assigned された論文を読んで発表する、というスタイルだった。準備時間が3週間ほどしかなかったので大変だったが、これは本当に勉強になった。Grigorchuck と Zuk の Geometric Group Theory に関する論文の内容を発表した。その場に著者の Zuk がいたことを翌日になって知った。

2016年秋ー2017年春(UC Irvine 5年目)

5年生の頭には初めてフランスに行った。そのとき知り合いを訪ねてスイスのジュネーヴにも足を運んだ。ジュネーヴは美しいところだった(余談であるが、Geneva をずっとジェネヴァと読んでいて Geneva がジュネーヴであることは向こうに行くまで気が付かなかった)。5年生では department fellowship を貰ったので TA として働くこともなかった。12月の半ば、日本に帰る前々日の夜に、Solomyak 先生から postdoc のオファーを貰った(アプライした数日後だった!)。アメリカの場合オファーを出すのは通常は2月なので、当然そこまで返事を待ってもらうわけになどいかなかった。給料がスズメの涙であることがネックだったが、Solomyak 先生は数学者として一流でかつ非常に良い方だし、加えてその少し前 presidential election がありアメリカに少々愛想を尽かしていて、アメリカを出て他の国に行きたい、とそのとき思っていたこともあり、少し考えた末オファーを受けることに決めた。UC Irvine に戻ってからは Solomyak 先生の論文などを読んだ。ヘブライ語の勉強もした。UC Irvine を去る前日の夜に、Jitomirskaya 先生ら Mathematical Physics のグループが farewell party を開いてくれた。最後に Jitomirskaya 先生と advisor を抱きしめて泣いた。胸が潰れるぐらい悲しかった。それぐらい悲しく思える自分が嬉しくもあった。

2017年6月ー2017年9月(イスラエル1年目前半)

UC Irvine を発ってイスラエルに着いたのは5月の末だった。イスラエル、というと大半の日本人は「戦争が絶えず自爆テロの頻発する北朝鮮レベルに危険な国」という認識だと思うのだが(少なくとも昔の自分はそうだった)、実際には危険など全くなく至って安全な所だ。Ph.D. ホルダーの割合は世界 No.1. であり、サイエンスに関しては世界最高レベルを誇る、そういう国だ(今の専攻である Fractal Geometry、Ergodic Theory はここが世界一かも知れない)。UC Irvine にいたときから、イスラエルに行ったことのある professor 達(驚くほど多い)などから色々と話は聞いていたので、安全な場所であることは知っていてそれに関しては何も心配はしていなかった。実際、戦争の影は微塵も感じられなかった。だが、(具体的なことを書くのは控えるが)この国に足を踏み入れたときには、あらゆる点で初めて UC Irvine に行ったときと正反対の衝撃を受けた。Ph.D. 時代にもう随分と1人で世界を廻っていて、英語がほとんど通じない場所でも何一つ苦労したことはなかった。いつでも人々はとても親切でフレンドリーで、何でも分からないことは聞けば笑顔で丁寧に教えてくれた。世界のどこでも同じなのだと何の疑問もなく思っていた。それだけにこの国から受けたショックは大きかった。着いたその日に、「ここでは苦戦するかも知れない」と思った。予想に反し、順応するのにそう時間はかからなかった。挫折を経験してきた人間というのはつくづく逆境に強い。8月頃からは、Tel Aviv University で週に一回無料で開かれるサルサのレッスン&パーティーに参加するようになった。

2017年10月ー2017年12月

この期間はずっとヨーロッパ(と日本)にいた。10月にはまずドイツの Oberwolfach に行った。Oberwolfach は森の中で、本当に綺麗な所だった。Fractal Geometry の leading experts である Michael Hochman と Pablo Shmerkin が organizer だった。内容が自分の研究に非常に近く、これは本当に勉強になった。Ph.D. advisor にも再会した。お別れのとき、少し目を潤ませながら “please do not disappear, write me time to time. Let me know how you are doing, mathematically and non mathematically” と言ってくれたのが印象的だった。”Even if I leave academia I won’t disappear so please do not worry. No matter what happens you are my advisor until I die” と返した。そのままスウェーデンの Stockholm にある Institut Mittag-Leffler 行った。ここも本当に美しいところだった。一ヶ月半程滞在した。京都大の木上先生に再会した。スタッフの人たちとも随分と仲良くなったので、去るときにはなんだかとても悲しかった。そこからダイレクトでフランスの Marseille にある CIRM に行った。CIRM を訪れるのはこれが三度目で、三週間滞在した。筑波大の秋山先生が organizer だった。Conference で日本人に会うことは極めて稀で、日本人が organizer の conference に参加するなんてことは当然初めてだった。S さんにも再会した。慶応大の仲田先生にも会った。先生は非常に博識で、色々と話を聞けて本当に面白かった。日本の先生とこんなに話したのはこれが初めてだった。CIRM のあとはそのまま日本に戻った。東北大の田中先生に invite されていたので、日本に戻って翌々日には仙台に向かった。仙台は美しい町だった。もう冬休みも間近で学生も少なかったが、それでも東北大の数学科の雰囲気には非常に好感を持った。そのときは雪が積もっていて、先生には「大変なときに来ましたね」と言われた。先生とは歳もほとんど変わらないはずなのだが、凄まじく博識で圧倒された。数日間の滞在でたくさん奢ってもらった。

2018年1月ー2018年6月(イスラエル1年目後半)

3ヶ月も留守にしていたせいで調子が戻るまでしばらくかかった。研究の方でもずっと結果が出せずに少々苦しんでいた。頭がなかなか数学モードにならず、調子の良いときにはいくらでも出来る数学が、このときには一日4、5時間やることすら大変だった。Advisor に昔 “when you are having a hard time, meet people” とアドバイスをもらったこともあり、この時期はひたすら毎日のようにサルサをやっていた。Mental health にはこれは非常に良かった。半年程のそんな時期を経て、6月頃に Ph.D. のときの結果を拡張出来ることに気が付き、そしてそれと同時期に他のいくつかの問題にもアイデアが浮かび、随分と長かった停滞期が終わった。 

2018年7月ー2018年12月(イスラエル2年目前半)

アメリカにいた頃は、何の疑問もなく将来はアメリカの大学で professor になるのだろうと思っていたのだが(特に始めの3、4年間)、色々と心境の変化もあり、この頃から日本で就職するのも悪くないかもしれない、とも思うようになった。それもあって、将来 tenure に応募するときの練習も兼ねて日本の position にもいくつか apply した。結局、12月に東北大の材料工学高等研究所(AIMR)から助教(任期5年)のオファーを頂いた。日本のアカデミアのことはほとんど何も知らなかったので、オファーを貰ったときにはこの position が良いのか悪いのか見当すら付かなかった。すでに(tenure or tenure track の)職を得ていた知り合いの2人にこれはなかなか良い position だと言われ(offer を貰ってから慌ててメールで聞いた)、かつこれは日本の数学者とコネクションを作る非常に良い機会かも知れない、とも思ったので、結局数日で offer を受けることに決めた。一年前、面識も何もない状態で田中先生に呼ばれ東北大にお邪魔したことを考えると、やはり東北大とは何か縁があったのかも知れない。

2019年1月—2019年3月(イスラエル2年目後半) 

毎年、日本から戻ってくる1月には mentally depressed になることが常だったのだが、今回は4月から東北大に行くことがすでに決まっていたこともあってか、イスラエルに戻っても特に精神にダメージを受けるようなことはなかった。1月の末頃から2月半ば頃にかけてこのブログを開設した(ブログビジネスの勉強などもしていたのでこの時期にはほとんど数学が進まなかった)。3月頭ごろには Michigan State University から Visiting Assistant Professor の offer をいただいた。(実は Michigan State University は UC Irvine とつながりが深く、知っているだけでも3、4人の UC Irvine での知り合いが Professor or Visiting Assistant Professor として向こうに移っている。)東北大のポジションも非常に良いものなのだが、やはりどうしてももう一度だけ世界で adventure がやりたかったので、結局数日で offer を accept した。(ちなみに向こうでは当時 UC Irvine で Visiting Assistant Professor だった Ilya が supervisor になるとのことだった。)Michigan State University は semester 制で academic year の始まりは8月なのだが、流石にもう少し東北大にいたかったので、向こうの department chair と交渉して1月開始にしてもらった(アメリカではこういうことは非常に flexible)。木上先生に invite されていたので3月の半ばには京都大学に向かった。時間にかなり余裕があったので滞在期間中には京都の街を色々と散策した。清水寺とその周辺には何度も足を運んだ。

2019年4月ー2019年12月(東北大学 AIMR)

東北大学 AIMR は予想を遥かに上回る素晴らしいところだった。給料がよく duty がゼロの上(スカイプ面接のときに「duty は何がありますか?」と聞いたら「金曜には tea time がありそれには出てもらうことになっています」と言われた)、広々とした個室のオフィスに昼寝用のソファー、そして潤沢な travel money があり、さらには秘書さんがいて何から何までやってくれるという、もはや文句のつけようのない最高の環境だった。仙台の街の美しさ住みやすさを考えると、ここが日本の non-tenure track の職の中で No.1. かもしれない。オフィスがあまりに快適だったので毎日15、6時間ぐらいは AIMR にいた。寝るとき以外には自宅に戻らなかった。オフィスで寝ることもしょっちゅうだった。研究の方も本当に上手くいった。ここ2年間と少し、なかなか面白いと思える問題が見つからず、結果も思うように出ず、数学に没頭できない時期が続いて少々苦しんでいたところだったのだが、ようやくその大変な時期が終わった。日本で名前と顔を売る唯一の期間だったので、AIMR にいた9ヶ月間には seminar talk や conference で20回近く日本の大学を廻った。日本に戻ってきたときには日本の数学者に知り合いはほぼゼロだったのだが、そうして精力的に活動した結果本当にたくさんのコネクションができた。K 大の S 研究室とは研究分野が近いこともあり特に親しくなった。仙台と AIMR があまりに素晴らしかったので、自分の成長のためにはもう一度アメリカに行った方が良いと確信しつつも、東北大を去るときは非常に後ろ髪を引かれる思いがした。

2020年1月ー2020年8月

世界を廻るのはもう慣れっこであったし、そもそもアメリカは勝手知ったる国であるので、渡米することには全く心配なことはなかったのだが、唯一寒さに関しては少々不安だった。冬のミシガンは恐ろしく寒いと散々聞かされていたからだった。毎日のように曇り空が続き太陽が全く拝めないことのメンタルへの影響も少し気にはなっていた。(たとえば「若き数学者のアメリカ」には「厚い雲の下私は窒息しそうだった」とあった。)だが実際に行ってみると寒さも聞いていたほどではなく(仙台にいたときとほぼ同じ格好で過ごすことができた)、天候の方も確かに曇りの日は多いものの週に1、2回は太陽が顔を出す日もあり、気候に関して特に苦労させられるようなことはなかった。食堂が非常に comfortable で値段もリーズナブルで、さらに食べ放題の上メニューも充実していたので、2月ごろからは毎日のように昼過ぎから夜中までそこに籠って仕事をしていた。3月頃、ミシガンでの生活も完全に慣れそろそろジムに行ったりサルサを踊ったりしようかと思っていた頃、コロナウイルスの流行が始まった。3月の半ばには大学も完全に閉まってしまい授業も全てオンラインになった。Fellowship を貰ったので夏休みにはドイツの Oberwolfach に3ヶ月遊びに行ってくる予定だったのだが、コロナのせいでそれも駄目になってしまった。収束も見通せず、アメリカにいるメリットもほとんどなくなってしまい、またこの混乱による budget cut で academia の job market もこれからどうなるか全く不透明だったので、予定を変更して一年目から日本のポストにアプライし始めることに決めた。8月の頭頃に埼玉大学からテニュアトラック卓越研究員のオファーを頂いた。5年間は研究をメインにやっていれば良い、という非常に恵まれたポジションだったので全く悩むこともなくオファーを頂いたその日に accept の返信をした。結果、ミシガンにはたったの8ヶ月しかいられなかったが、研究面でも得るものは非常に大きかったので、やはり本当に来て良かったと感じた。

2020年9月ー

今はここです。埼玉大学にいます。